思い出の味は初恋に似て
ダンナさんには、思い出の味があるようです。
それは、彼が小さい頃に住んでいた町にある、N(仮名)という名のお店のチョコレートケーキ。それと似たようなケーキを食べるたびに、「あー Nのケーキみたいだあ」と、かわいらしい顔でうっとり彼は言うのです。
そして私はそれを聞くたびに、またそのケーキを食べさせてあげたいな、でも今になって改めて食べたら『あれ?』ってことになるかなあ、などと考えていたのでした。
数年、あるいは10年以上もそういったことが続き、ついに私はガマンができなくなりました。そうだ! 今年の彼のお誕生日には、Nのチョコレートケーキでお祝いするんだ! そう決めたら、何だかワクワクしてきました。
Nは、昔はわかりませんが今は、単なるケーキ屋さんではなく、レストランとして営業しているようです。ホームページで調べると、デザートメニューにそれらしき名前のチョコレートケーキがあるのを見つけました。しかし、ホールケーキという項目が別で設けられてはいるものの「生クリーム」「生チョコレート」の表記しかなく、彼が求めるチョコレートケーキのホールサイズが存在するのかどうかまではわかりませんでした。
そこで、メールで問い合わせをしてみたのです。夫が幼い頃の思い出の味なのですがホールで買えますかと。もしホールサイズがあるのなら、仕事はお休みしてこっそり買いに行く算段をつけていました。
そして翌々日、お店の方から電話でお返事が。
- そのケーキだと思われるケーキは存在する。
- ホールで用意することも可能。
ホールで買えるんだ! と、心が浮き立ちました。しかし、お店の方のお話は続きます。
- ただ、今までずっとケーキを担当していた者が、9月で辞めてしまった。そのため今のケーキは別の者が作っており、似てはいるが以前と少し異なるので、食べた時に違うということがわかってしまうかもしれない。
とのことでした。お店の方は、思い出とまったく同じ味を用意できないことを、申し訳なさそうでした。
なんということ! しかも9月だなんてそんな最近…。ショック!
同じお店の同じケーキでも、違う人が違うように作ったら、たしかに同じケーキにはならないのかもしれない。事実、少し違うとも言っていたし。
彼の記憶は遠い昔の物だから、もしかすると、少しの違いはわからないということもあり得る。何より、Nのケーキを用意したということ自体を喜んでくれるに違いない。
それでも、少し迷ってから、私は買うことを諦めた。初恋の相手にだって、大人になってからの再会はしない方がいいというじゃないか。思い出は美化される。思い出の味は、思い出のままにしておく方がいいんだきっと。私がそれっぽいケーキを再現できるようになろうそうしよう。
でもそんなこと以前に、今年のお誕生日はいろいろ嫌な気持ちにさせてしまい、祝われたいという気持ちすら奪ってしまったのだけど。ごめんね。
お誕生日おめでとう。